T e x t k y

緩やかな時間

様々
な考えを持った人が存在している社会で自身がその多様な思考の中で埋もれてしまわぬように必死に抗っている。やがてその繰り返し疲れてきた頃に、妥協という言葉を知った。

たまに何も考えず、ただただ景色を見つめている時、その緩やかな時間の美しさに気づく。まるで全てが静止したような空間の中に身を任せ、ただ過ぎて行く時間の流れに身を委ねる。それを感じる事が出来る事こそ最高の贅沢ではないだろうか。ただ集団の中で流されて生きる事よりも、そのひと時の為に、そしていずれはそのひと時が毎日のように優しく包み込む日々を送る、そういう歳をとって行きたい。

一瞬の眩い光を発するより、種火を絶やさぬ努力の方が価値があるのだ。

旅路

夜明けまで後2時間の冷たい時間だった。
もう少し眠っていたいという誘惑が足元から生温かく忍び寄り、脳へ絡みつくように這い上がってくる。
寒い。寒さで目覚めるのも久しぶりだ。昔、小学生の頃家出をして、車の下で寝ていたら朝頬に氷が張っていた事がある。
そんな事を考えながら天井を見つめ、見ていた夢をぼんやりとした頭の中で思い返す。
「どうしてここにきたの」草原の緑と空の青、それを際立たせる白い雲の鮮やかな色彩の景色を見ている私にそっと問いかける者がいる。
自分でもその理由が何故だかわからない私はドギマギしながら言葉を濁し、声のする方へ顔を向ければ眼の端にちらりと黒い髪の女性が映る。あっと思うとその姿はもう見えない。
何故ここにいるのかを考えるなんてまるで自分こそが世界だと思っているモラトリアムの学生のようではないか、私は吐き捨てて傍にある長椅子ともベンチともつかぬ物に腰を下ろす。
風は強く冷たく私の頬を撫で、私はだんだんと目が乾いていく。涙が浮かび、目を瞬かせると空は赤く、目の前に広がっていた緑の草原は枯れ草の様な鈍い黄色となっていた。
「帰るね」また声がした。聞き覚えのある、しかし思い出せない声であった。
どうせ見えぬ相手の声なのだから、気にするだけ時間の無駄だろう。頭で理解していても身体は声の主を探して辺りを見回す。
いつの間にか赤い空は鈍い寒色に染まり、灰色の雲と雷が私の眼に映る。
「そういう事か」私は独りごち、その風景にこれでもかと怒りの眼差しを向け、立ち上がる。
大きな伸びをした所で猫が足に絡みついてきた。
「お前も嫌いなんだな」そう言って猫を撫でようとすると猫はスルリと足の間を抜け、先を丸めた尻尾を立てながら私を一瞥しスタスタと歩いて行ってしまった。
もうその猫とはもう二度と会う事は無いのだろう。

そうして私はホテルで目覚めた。昨日から知人の見舞いに大阪を訪れていたのだ。
心斎橋近くでホテルを探していたのだが、人の多さにウンザリし、その熱波に押し出される様に難波を出て人気の少ない梅田のホテルを取った。
独り店に入り食事をしてからたこ焼きを買って帰って来てそのまま眠りについたのだろう、化粧台には食べたたこ焼きの空容器が無造作に置いてある。
無計画な旅行の残骸。見ていて心安らぐ綺麗な物ではない。
生きると言う事は偽善ではないのだ。世に生きる全ての人が苦しみ、悲しみ、笑いながらその感情を、一瞬を何層にも積み重ねていくのだ。その全体像は最期にしか見れぬ。
例え綺麗な物だけを見せていてもそれは嘘であり、また怒りで全てを隠しても、その裏にある空虚さを覆い隠す事は出来ないのだろう。哀しいから、可笑しい。
きっと移り変わる風景の一部を切り取って見せる事等、流れる川に小石を投げ込むような物なのだ。
ふと目を上げれば、窓の外から見える風景は黒と灰色のグラデーションになった空を映しだしていた。
もう、いい加減目を醒まさなければならぬ時間であった。

外光

「三軒茶屋まで」とタクシーに乗り込み、酒に溺れた揺れる頭を抱えながら運転手にそう告げた。運転手は気のない返事を返し、車はスルリと夜の道路を走りだした。溜息をつきながら、座席に沈み込む。気だるく甘い匂いが鼻をつく。
その夜、酒を飲み何を話していたのかは良く覚えていないが、不用心に自分を見せていたのは確かだ。その油断に恥ずかしさと後悔が折り重なり、頭が重くなってくる。

外光が後ろへ流れていくに連れ、私の奥底からもう一人の私が近づいてくる。
私の傍に座った私は、感情のない顔で眺めながら「どうした」と尋ねた。靄のかかった意識で経緯を答えると、黙ったまま私を見つめる。その態度に言い表せぬ怖れを感じ、それを紛らわすために私は怒りながら言い訳を始める。言い訳が進むにつれ、もう一つの私の顔は嘲笑を浮かべ始める。喉が渇く。何故、私はこんな所で言い訳をしているのだ。私はそう思い始める。だが、頭の痛みがそれを妨害する。先程までの会話の断片が光とともに渦巻く。甘いワイン、空虚な繋がり、虚ろな眼と会話、虚構の部屋に存在する儚い願望をにべもなく踏みつぶす欲望。
私はなんとか思い出そうとする。幾分涼しい夜気の中を歩く私、足取りはしっかりと、意思をもって歩いている。
歩く私が手を挙げてタクシーを止める光景で車が道路の段差に跳ね、目が覚めた。

いつの間にか目の前のもう一人の私は消えていた。
気づけばラジオが小さく聞こえる車内で、窮屈そうに身動ぎをしている。幾分気分が良くなる。頭の鈍い痛みは消えぬが、我慢できぬ程でもない。車は環七を静かに走っている。

「どのくらいかかりますかね、40分くらい?」先程の運転手の気のない返事が良く聴き取れず、声を確認する為に私はどうでもいい事を聴いてみた。時刻は深夜3時前である。
この時間にタクシーに乗る人間が到着時間を気にする事があるなら、それは非常時しかないのではないだろうか。わからん。
「そんなにかかりませんけど、大丈夫ですよ」幾分若く聞こえる運転手の声を遠くに聴きながら私は満足し、見覚えのある風景が近づいてきた事に安堵しながら、静かな眠りの中に落ちて行った。